『裏切り』
医局のある病棟を抜けて、もう見馴れてしまった渡り廊下を歩く。
白いドアを開けると、そこは何一つ変わらぬ病室。
いつもの場所に、いつもの姿勢で。
お姉ちゃんはベッドに横たわっていた。
その穏やかな寝顔を見るたびに、
私は、あの事故が夢だったのではないかと思ってしまう。
もう二度と目を覚まさないかもしれないなんて、今でも信じられない。
手術が成功して、お姉ちゃんが命を取り留めたと知った時、
どれだけ嬉しかったことか。
ところが……
一週間経っても二週間経っても、意識だけは戻らなかった。
ついこの間まで、一緒に笑い合っていたのに。
呼びかけに応えず、触れても身動き一つしない。
安堵が当惑から不安、そして絶望へと変わっていく。
あんな思いは、もう二度としたくない。
あの人が付き添っていてくれなかったら、
私はとっくにおかしくなってしまっていたに違いない。
一ヶ月経ち、二ヶ月経ち……
初めのうちはお見舞いに来てくれていたクラスの人たちも、
一人また一人と減っていき、ついには誰も訪れなくなった。
これが、忘れ去られてしまうということなのだろう。
この世界から涼宮遙という人間が消えてしまっても、
何事もなかったかのように時は流れて行く。
短かったお姉ちゃんの髪も、今では肩にかかるほどに伸びていた。
「今日はね、お姉ちゃんの好きな花を買ってきたんだよ」
いつものように花瓶の水を替え、窓を開けて空気を入れ替える。
学校が終わると、すぐに病院に駆けつけるのが私の日課だった。
少しでも長くお姉ちゃんの傍についていてあげたかった。
あのお姉ちゃんのことだもの、
目が覚めた時に独りきりだったら、きっと寂しがるに違いないからだ。
でも、お姉ちゃんが傍にいてほしいと願うはずの、
たった一人の男の人は、もういない。
(今、お兄ちゃんは何してるかなぁ)
不意に、鳴海さんの懐かしい顔が脳裡に浮かんだ。
◇◇◇
「遙が事故に遭ったのは、待ち合わせに遅れた俺のせいだ……」
そう言ってお兄ちゃんは自身を責め続けた。
誰もいない病室でお姉ちゃんの手を握って、
声を殺して泣いていたのを、私、知ってる。
みるみるうちにやつれていくお兄ちゃんを見るのが辛かった。
嘆き悲しむ後ろ姿を見るたびに、胸が締めつけらるような思いがした。
「お兄ちゃんのせいじゃないよ」
そう言って慰めてあげたかった。
だけど、私では、お姉ちゃんの代わりにはなれないから。
鳴海さんの傷ついた心を癒してあげられないから。
だから、ただ黙って見ていることしかできなかった。
ちょうど事故から一年経った頃、お兄ちゃんは姿を消した。
それまでは毎日のようにお見舞いに来てくれていたのに。
体を壊したんだろうか? 事故に遭ったんだろうか?
急に会えなくなったことで、私は凄く心配した。
「もう二度と来ないで欲しい」って告げられたからだと
後になって知った私は、生まれて初めてお父さんを詰った。
もし、その場にいたなら、絶対止めたのに。
何度も電話をかけたりして連絡をとろうとしたけれど、いつも留守で。
ついに今に至るまで、お兄ちゃんの行方は判らないままだ。
あの頃の何とも表現し難い悲しげな顔を、今でも時々夢に見る。
いつまで待てば、どれだけ待てば、
お姉ちゃんは目を覚ましてくれるんだろう……?
残された家族にとって、つらい日々が続いた。
これが日常なのだと受け入れられるようになるまで、長くかかった。
部活動や勉強に追われているおかげで回数こそ減ったものの、
今でも先の見えない不安に囚われる時がある。
苦しくて、悲しくて、泣きたくなる時がある。
そんな時は、楽しかった日々を思い出すことにしている。
たとえば、みんなと泳ぎに行った日のこと。
お姉ちゃんがいて、鳴海さんがいて、水月先輩がいて。
少し照れたようなお兄ちゃんの周りを、はしゃぎまわる私。
恥ずかしそうにしているお姉ちゃんを、水月先輩がからかっていたっけ。
泳ぎ疲れるまで遊んだ、暑い日のこと。
きっと忘れることはないだろうな。
来年も、再来年も、ささやかで幸せな日常が続いていくんだと
信じて疑わなかったのに。
もう、あの頃には二度と戻れないんだね……。
短かった夏の思い出が、お兄ちゃんとの楽しい記憶だけが、
今の私の支えだった。
だけど、病室に吹き込んだ涼しい風が、私を現実へ引き戻す。
ぼんやりしているうちに、いつしか病室は薄い茜色に染まっていた。
――私、何やってんだろ。
ふと気が付くと、思い出に縋っている自分がいる。
昔のことを思い出しては涙ぐんでしまう、弱い自分がいる。
特に最近は、お兄ちゃんのことばかり考えてしまう。
自分でもおかしいんじゃないかと思うくらい。
一番辛い時に付き添ってくれた、お兄ちゃんのことを。
目醒める日を一緒に待とう、そう言ってくれた人のことを。
いつだって考えている。
……お兄ちゃんに会いたい。
突然、そんな考えが稲妻のように閃いた。
自分の悩みを打ち明けたい。
優しい鳴海さんのことだもの、きっと相談にのってくれるはずだ。
お父さんの心ない仕打ちを今でも引きずっているかもしれないが、
謝れば、きっとわかってくれる……!
それは、まさしく天啓のように感じられた。
単なる思い付きだったにもかかわらず、今はもう心を捉えて離さない。
きっとお姉ちゃんも、鳴海さんのことを待ちわびているはずだ。
お父さんたちに内緒で連れてきてしまおう。
善は急げ、だ。
まずは次の休みの日にでも、以前の住所をあたってみよっと。
「待っててね、お姉ちゃん」
私は心を弾ませながら、病室を後にした。
なぜか想いが伝わるような気がしてならなかった。
それは、予感だったのかもしれない。
もちろん、願えばすぐにお兄ちゃんに会えるわけもなく、
捜しあてるには時間がかかるだろうと思ってた。
だが、奇跡は起こったのだ……わずか数十分後に。
街中で懐かしい後ろ姿を見つけた時、私は目を疑った。
混雑した雑踏での、一瞬の邂逅。
一年も経っているのに、お兄ちゃんだってすぐに判った。
すぐに判ったことが、嬉しかった。
家路を急ぐ人波を掻き分け、慌てて後を追う。
見失わないように気をつけなきゃ。
「お兄ちゃ……」
そう呼んで駆け出しかけた時。
もう一人、誰かが隣にいることに、ようやく気がついた。
次の瞬間、世界が凍りついた。
◇◇◇
お兄ちゃん、水月先輩と腕を組んで歩いてた。
それは、にわかには信じがたい光景だった。
あれは、きっと私の見間違いなんだよ。
そう思いたかった。
そう信じたかった。
でも、それは紛れもない事実だった。
その場をすぐに離れるべきだったんだ。
そうすれば、見なくて済んだのに。
仲の良い親友同士が、ふざけてじゃれあっていたんだと。
そう思い込むことが出来たのに。
だけど……あの直後に二人の取った行動は、
私にとって本当にショックだった。
不意に目を合わせた二人は、くすっと笑い。
そして、自然に唇を重ね合ったのだ。
まるで恋人同士のように。
どんなに強く目をつぶっても、あの光景が
何度も何度も鮮やかに瞼に浮かび上がってくる。
あのキスのやり方は、明らかに初めてではなかった。
鳴海さんと水月先輩が男女の関係にあるということぐらい、
恋愛経験がない私でも判る。
いったい、いつから付き合っていたんだろう?
一ヶ月前? 半年前? まさか、お姉ちゃんが事故に遭う前から?
――私、まったく気づかなかった。
見舞いに訪れる客が来なくなって久しい病室で
お姉ちゃんが眠り続ける今も、
二人は抱き合い、笑い合っている。
こんなの、ひどい……ひどすぎるよっ。
不意に世界が歪んだ。
視界が白くぼやけ、雑踏の騒音が急速に遠ざかっていく。
あふれだした涙が、止まらない。
水泳の楽しさを教えてくれた、憧れの水月先輩が。
真剣に私の話を聞いてくれた、優しいお兄ちゃんが。
大好きな二人が、お姉ちゃんを裏切った……!
私の信じていた世界が、大切な思い出が、崩れ去っていく。
現実は、あまりにも残酷だった。
心が痛い。
胸が引き裂かれるようだ。
こんなに悲しい思いをするぐらいなら、
先の見えない不安で震えていた方がまだマシだった。
このままじゃ私、壊れちゃうよ。
とてもじゃないけど、堪えられそうにない。
どうして、私の大好きなままの二人でいてくれなかったんだろう?
どうして、お姉ちゃんを裏切って平然としていられるんだろう?
どうして、そんなに幸せそうにしていられるのだろう?
ねえ、どうして……?
どうして……。
それから、どうやって家に帰ったのか良く覚えてない。
気がつくと、ベッドの中で枕を濡らしている自分がいた。
もう体中の水分が抜け切るぐらい泣き続けているのに。
未だに涙が涸れ果てないのが不思議だ。
お父さんやお母さんには、言えない。
今日見てしまったこと、絶対に言えない。
◇◇◇
次の日、私は初めて部活をサボった。
重い足を引きずるようにして、トボトボと通い馴れた道を歩く。
今日も強い日差しが肌を焼く。
真夏の太陽が、狂ったように鳴き続ける蝉の声が、私を責め苛む。
昨日までは、確かに信じていたものがあったというのに。
今はもう何も感じない。
心にポッカリと穴が空いたようだった。
大切にしていた全てを失った時点で、
私の心は死んでしまったんだ、きっと。
医局のある病棟を抜けて、もう見馴れてしまった渡り廊下を歩く。
白いドアを開けると、そこは何一つ変わらぬ病室。
いつもの場所に、いつもの姿勢で。
お姉ちゃんはベッドに横たわっていた。
……親友と恋人の裏切りを、お姉ちゃんは知らない。
「今、お姉ちゃんが起きないと、お兄ちゃん行っちゃうよ」
体を揺さぶってみる。
「ねぇ、お姉ちゃん、起きてってばぁ」
激しく揺さぶってみる。
「お願いだから、起きてよぉ……」
だけど、いくら呼びかけてみても、
お姉ちゃんが目醒めることはなかった。
眠り姫の待ち焦がれた王子様は、もういない。
絶望という名の暗闇が、私の心を蝕んでいく。
こんな世界なんか、業火に包まれて焼き尽くされてしまえばいいのに。
眩い窓の外を眺めながら、いつしか私は泣いていた。
茹だるような暑さの中、果てしなく青い夏の空が、どこまでも続いている。