『伝えたい想い』
【第一章】
名雪は、おっとりした女の子だった。
いつもニコニコと微笑みながら、どこか夢見がちなところがあった。
小さい頃からそうだった。
一方で、何かと俺の世話を焼きたがった。
別にこっちが頼んだわけでもないのに、
妙にお姉さん風を吹かせるので、面映く思ったものだ。
この前も、学食で買ったパンばかり食う俺を見て、
「わたしがお弁当を作るよ」
なんて言い出したので、すごく驚いた。
俺が彼女の背丈を追い越した今になっても、
こんなところは昔とちっとも変わっていない。
どんな時でも、俺のことを気遣ってくれる名雪。
その優しさがとても嬉しかった。
でも、素直に感謝の言葉を口にするのが何となく照れ臭くて、
「遅刻したら、その日は弁当持参だと思ってくれ」
と、ついつい俺はクラスメートたちにおどけてしまう。
「ひどいこと言ってる」
やりとりを聞いて、名雪は横で拗ねていた。
【第二章】
だけど最近、名雪の様子がおかしい。
気がつくと、いつも遠くを眺めている。
まるで過去に思いを馳せているかのように。
一見普段と変わらないようだけれど、俺には判る。
ある雪の日も、名雪はじっと窓の外を眺めていた。
「雪……降ってるね」
「別に珍しくもないだろ」
「いっぱい降ってる……あの時みたい……」
「あの時って?」
「祐一を駅まで捜しに行った時……」
「全然面白くない。俺は2時間も待たされて――」
「違うよっ。……7年前の話だよ」
名雪は、それっきり黙ってしまった。
いつもの明るい名雪とは違う、俺の知らない名雪がそこにいる。
彼女の横顔を見つめながら俺は思った。
どうして時折、とても悲しげな表情をするんだろう。
理由を尋ねたかったけれど、できなかった。
名雪が泣き出してしまいそうな、そんな気がしたから。
【第三章】
彼女の微笑みに、魅せられている。
だから、近頃の名雪の姿が痛々しかった。
早く元気になってほしい。
俺の知っている名雪に戻ってほしい。
そして、いつもの穏やかな笑顔を見せてほしい。
試験勉強にかこつけて彼女の部屋へ押しかけ、
悲しそうにしている理由を訊き出そうとしたが、
「この街が大好きだった、あの頃の祐一に戻ってほしいよ」
という思わせぶりな言葉で、はぐらかされてしまった。
確かに、この街に戻ってきたのは7年ぶりだったけれど……
不思議なことに、名雪と最後に会った日の出来事が思い出せない。
その夜、俺は久しぶりに幼い頃の夢を見た。
仲が良かった女の子と、二人だけの秘密の場所で遊んでいる夢。
夕暮れを眺めている彼女に、呼びかけている。
「また、ここで会おうな」
「ここで……?」
「いつか約束しただろ。今度俺がこの街に来た時には……」
「うんっ……約束、だよ」
【第四章】
昔、いつも一緒に遊んでいた女の子がいた。
遠い日にあの場所で彼女と交わした、大切な約束。
だけど、今まで俺は、そのことをすっかり忘れていたんだ。
とても悔しかった。
もう一つ、気がついたことがある。
それは今も昔も変わらない、名雪を好きだという気持ち。
自分の想いを伝えたくて、彼女を散歩に誘った。
一緒に遊びに行こうと言って、強引に外へ連れ出す。
「珍しいね、祐一が誘ってくれるなんて。それで、どこに行くの?」
「約束の場所」
「……約束?」
「どうしようもなく馬鹿な男が、約束をすっぽかした場所だ」
「……祐一」
「俺は、謝らないといけないんだ……その女の子に、心から……」
今朝の夢について話すと、名雪は微笑んだ。
見ている俺の方が切なくなるほど、寂しげな笑顔で。
「その約束をしていた女の子は、わたしじゃないよ」
瞬間、自分の顔から血の気が退いていくのが分かった。
【第五章】
「俺は、てっきり名雪だったと……」
悲しみに満ちた彼女の表情に、俺は続ける言葉を失った。
「残酷だね、祐一は……。わたし、あまりにも惨めじゃない……」
こんなはずじゃなかった。傷つけるつもりはなかったんだ。
「人の気持ちも知らないくせに……何も分かってないくせにっ」
うなだれた俺に名雪の言葉が突き刺さる。思わず頭に血が昇った。
「人の気持ちを分かってないのは、名雪の方じゃないかっ」
そう叫んでしまった瞬間、俺は激しく後悔していた。
みるみるうちに名雪の瞳に浮かび上がる、涙を見てしまったから。
彼女の固く結ばれた唇が、何かを紡ぎだそうとする……。
だけど、泣き出すのを堪えるかのように俯いた名雪は、
くるりと踵を返すと、後ろも振り返らずに走り去ってしまった。
彼女の涙が心に痛かった。
頬を叩かれるよりも、きつい言葉で責められるよりも。
たった一瞬の涙が、この胸を締めつけた。
足取りも重く一人帰宅すると、昼間から布団に潜り込む。
心の痛みを忘れるために。
そして、俺はまどろみの中、再び夢を見た――。
【第六章】
木のベンチに座って、俺はまだ泣いていた。
心配して捜しに来てくれた少女が、そっと手を差し伸べる。
「しばらく会えなくなっちゃうけど……また、来てくれるよね?
わたし……今まで言えなかったけど……
祐一のこと……ずっと……好きだったんだよ」
その瞬間、差し出された手を、俺は思いっきり払い除けていた。
「……ごめんね……」
少女は、泣き出すのを堪えるかのように俯いた。
「……わたしが、悪いんだよね……」
違う。名雪は悪くなんかない。
だけど、その言葉は声にならなかった。
「……明日、会ってくれる?」
その瞳に涙を湛えて。
「……さっきの言葉、もう一度どうしても言いたいから……」
少女が健気に笑おうとする。
「……ここで、ずっと待ってるから……」
堪えていた涙が、彼女の頬を伝っていた。
「……お願い、祐一……」
【第七章】
夢から醒めたにもかかわらず、
しばらくの間、動くことさえできなかった。
甦った幼い日の記憶が、あまりにも衝撃的だったから。
仲良しだった女の子が木から落ちて死んでしまった時、
俺は自ら思い出を消し去ることで、辛い現実から逃げ出した。
優しい名雪を置き去りにして。
追いすがる彼女の手を振り払って。
しかも今になって、素知らぬ顔でこの街に戻ってきたんだ。
それは、あまりにも残酷な仕打ちだった。
名雪は、どのような思いで俺を見つめていたのだろう?
これまでの、何気ない会話、他愛ないやり取り。
そして――その向こう側にあった、名雪の気持ち。
ずっと一緒にいたというのに。
誰よりも名雪のことを知っていたつもりだったのに。
俺は彼女の気持ちをまったく分かっていなかったんだ。
自分が、どうしようもなく嫌になる。
なんで気がつかなかったのだろう。
名雪は俺を待ち続けていたんだ――あの日から、ずっと。
【第八章】
思い返せば、辛い時も悲しい時も、いつだって傍にいてくれた。
なのに、彼女の優しさに、俺はただ甘えるばかり。
7年前は、泣くことしかできなかった。
だけど今の俺は、もう幼い子供じゃない。
名雪を捜さなくちゃ。
伝えられなかった想いを、伝えるために。
あの時振り払ってしまった手を、つかむために。
外では、いつしか雪が降り始めていた。
家を飛び出し、彼女の姿を求めて白く霞む街中を駆け抜ける。
いるとすれば、あそこしかない。
そして思った通り、名雪は駅前に独り佇んでいた。
二人が別れ――再び巡り合った場所で。
木のベンチに座って、寂しそうに雪の舞う冬空を眺めている。
「雪、積もってるぞ」
ありったけの勇気を振り絞って、手を差し伸べた。
「どうして、ここにいるって分かったの?」
呆然としている名雪に、俺は万感の想いを込めて語りかけた。
「7年間も、待っていてくれたんだな……」
【第九章】
赦してほしい、とは言えなかった。
あの場から、そして現実から逃げ出したことが、
どれほど名雪を傷つけたか、もう気づいてしまったから。
「ひどいよ……」
両手をぎゅっと握り締める名雪。
「今頃そんなこと言うなんて、ずるいよ……」
両肩が小さく震えている。
「わたし、待っていたんだよ……あの時から、ずっと」
両目に浮かんだ、涙。
「必ず祐一が来てくれるって信じて……待っていたんだよ」
立ち上がろうとした名雪が、不意によろめいた。
慌てて俺は、彼女を抱き留める。
「一生懸命走ってきたけど……遅刻だったな」
冷え切った名雪の体に、胸が潰れそうになった。
いつから二人はすれ違ってしまったのだろう。
こんなに辛い思いをするぐらいなら、
こんなに彼女を悲しませるぐらいなら、
この街に帰って来なければ良かったんだ。
【第十章】
そう考えた次の瞬間、俺は目を疑った。
瞳を潤ませながら、名雪が幸せそうに微笑んだから。
「やっと……わたしの許へ帰ってきてくれたんだね」
思いもよらなかった、温かくて優しい声。
俺が憎くないのかと尋ねると、不意に柔らかな唇が重ねられてきた。
「……これがわたしの気持ち、だよ」
はにかみながら、名雪が告白する。
「わたしの言葉、まだ憶えてる?」
「……ああ。ずっと好きだったって、言ってくれたよな」
「わたし今でも、誰よりも祐一のことが好きなんだよっ」
ずっと想い続けてくれた、ずっと信じていてくれた。
名雪の強さが、一途な想いが、俺の心を激しく揺り動かす。
胸の少女が愛しくて。あふれ出した涙が止まらなくなっていた。
――言葉では、決して伝えられない想いがある。
俺は、ひたすらに名雪を抱きしめ続けた。
そうすることしか出来ないかのように、
そうすることしか知らないかのように。
ようやく重なり合った二人の想いを、空に舞う雪だけが見守っていた。