『素直に泣ける日』
【第一章】
ある日の放課後、祐一さんがデートに誘ってくれた。
「ふぇ〜。祐一さん、佐祐理なんかとデートしたかったんですか?」
「ああ、したかったよ。佐祐理さんは魅力的な女性だからな」
「祐一さんは佐祐理を買いかぶってます。きっと幻滅しますよ」
「確かめさせてくれるんだろ?」
「祐一さんがそうしたいなら」
彼は舞を好きなんだと思っていただけに、とても嬉しかった。
ありがたく好意を受け、日が暮れるまでの時間を二人で過ごす。
私目当てに人だかりができ、祐一さんは誇らしげだった。
帰り際の路上で、嬉しそうに話しかけてくる。
「これで佐祐理さんもわかっただろ。自分の魅力ってもんがさ」
「佐祐理は普通の子よりちょっと頭の悪い、ただの女の子ですよ」
「佐祐理さんが自分のことを何て言おうが、俺は大好きだからな」
「あははっ。佐祐理も祐一さんのこと、大好きですよ」
「本当か? じゃあ、敬語を使わずに話してくれよ」
突然、祐一さんが以前の話題を蒸し返してきた。
先輩の私がいつも敬語で呼びかけることを、気にしていたのだ。
だから話した。どうして、その行為が私にとって特別なのかを。
【第二章】
幼い頃から、皆に愛されようと、必死になって良い子を演じてきた。
社交界で大人にちやほやされ、お父様から褒められることで、
私は自分の正しさを確認したものだ。
弟の一弥が生まれたのは、ちょうど両親が多忙を極めていた時だった。
お父様やお母様に代わって、一弥を良い子にしなければならない。
立派にお姉さんを務めることで、自分自身も良い子になれる。
これからは、この子と一緒にいて、二人で正しい子になろう。
だから「威厳を持て、甘やかすな」とお父様が命じた通りに、
生まれつき体の弱かった一弥に対して、私は厳しく辛く当たった。
しゃくりあげて泣く弟を見るたびに、とても暗い気分になった。
本当は慰めてあげたかったけど、そうすることができなかった。
一弥を良い子にするためだから。私は自分の正しさを信じて疑わなかった。
一弥は体に不調をきたし、やがて病院に寝泊まりするようになった。
ベッドで眠る弟は、あまりに弱々しく、哀れだった。
日に日にやせ細っていくその姿を、私は見ていられなくなった。
私が小学生の時、ついに一弥は死んだ。
あの子のことを思うたびに、今も心が締めつけられる。
……私が、殺したようなものだったから。
【第三章】
私はなんてひどい姉だったのだろう。
虫歯になるくらい駄菓子を食べて……
風邪を引くぐらい水鉄砲で遊んで……
そんな日々に、一弥と二人で生きていればよかったんだ。
二人、笑っていられれば、幸せだったんだ。
悲しくて悲しくて、胸が張り裂けそうだった。
涙が涸れ果てるまで泣きたかったけれど、できなかった。
泣き方を忘れてしまったから。
それが、良い子を演じるために自らの感情を殺し続けてきた結末だった。
かぶった人の顔と一体化してしまうという
伝説の『肉付の面』のように、微笑みは私の顔に張り付いていた。
気丈な娘だ、と大人たちは思ってくれたようだけれども。
お父様も、一弥の死を境にして変わってしまわれた。
家庭を省みず、あれほど仕事に打ち込まれていたのに、
一人で物思いに耽っておられることが多くなった。
跡継ぎとして一弥に寄せていた期待が大きかったのだろう。
私は、ほとんど見向きもされなくなった。
自分が必要とされていなかったのだという事実に、うちのめされた。
【第四章】
家から近いという理由だけで高校を選んだ時も、両親は反対しなかった。
たとえ家から遠い高校に入ったとしても、おそらく同じだったに違いない。
いてもいなくてもどうでもよい空虚な存在、それが私だった。
いつしか、私は自分のことを佐祐理、と呼ぶようになった。
自分の事さえも他人事のようにしか捉えられなくなったから。
世界の果てに自分だけが取り残されてしまっている、そう感じていた。
周りの時間は流れているのに、私の刻は一弥の死んだ日から凍りついていた。
学校では人気者だったけれど、素顔の私を見てくれる人は誰もいない。
皆が慕っていたのは「優等生」「有力議員の娘」としての倉田佐祐理だった。
良い子を演じ続け、笑顔を周りに振り撒きながら……私は独りぼっちだった。
ふわふわと、本当の自分は上空を漂っていた。
悲しい時、楽しい時、どんな表情をすればいいのだろう。
一弥を失ったあの日から、私は何の感情も湧かなくなってしまっていた。
それは、弟に厳しく当たったという罪に対する、罰だった。
ならば、人に優しく接することで、罪を贖うこともできるのではないか?
だから、私は微笑みを絶やさず、人に献身し続けた。
本当の自分を見てくれる人、必要としてくれる人を、待ちながら。
素直に泣ける日、笑える日が、いつか来ることを夢見て。
【第五章】
そんなある日のこと、私は驚くべき光景に出くわした。
人だかりの中、同じ新入生の女の子が、
お腹を空かせた犬に自分の手を噛ませていたのだ。
それは異様な光景だった。でも、私にはわかった。
女の子は、ただその優しさを与えていただけなのだと。
周りではやしたてている人たちは、誰も気づいていなかったけれど。
今、話しかけないと……今、この子と友達にならないと絶対に後悔する。
私は駆け出していた。
こうして、私は川澄舞という親友と巡り合った。
舞は不器用で、自らの感情を表すのがとても苦手だった。
人目をまったく気にせずに行動するので、すでに変わり者扱いされていた。
でも、みんなは知らない。舞の優しさを。
私は思った。この子を、幸せにしたい。
そして、それは私自身が幸せになる、ということだ。
ひとは、ひとを幸せにすることで、幸せになれるのだから。
幸せを与えて、この子と一緒に幸せになろう。
それは、一弥を失ってから初めて抱いた、他人に対する感情だった。
私はついに、自分を取り戻すきっかけをつかんだのだ。
【第六章】
「……出会ったんですよ、佐祐理が頑張れる目標と。
ですから……もう少し待ってくださいね。
いつか言います。いつか、きっと……『おはよう、祐一くん』って」
特別なのだ、その行為は。
罪を償い終える、その日まで。
心から笑えるようになる、その日まで。
だけど、彼は納得がいかないようだった。
「佐祐理さんは、それで本当に幸せなのか?」
とっておきの笑顔を向けて、祐一さんに答える。
「あははっ……佐祐理は今、とっても幸せですよ〜」
彼の顔が険しくなった。
「その表情。その表情を見る度に、不安になってたんだ。
笑顔の裏に隠された何かを感じて。佐祐理さん、すごく無理してる」
「そんなこと、ないですよ。舞と一緒にいると、幸せなんです」
「それは、舞を弟の身代わりにしているだけだろっ。
優しく接してあげられなかった一弥くんの代わりに」
「ふぇ……」
思いがけない追及に、私はうろたえた。
【第七章】
「幸せは、与えたり与えられたりするものじゃない。
人を幸せにすることで自分も幸せになるってのは、錯覚だよ。
私は良いこと正しいことをしました、という自己満足さ」
「……」
「空しくないの、佐祐理さん? 心から笑えずにいて。
本気で怒ったり泣いたりしているのも、俺は見たことない。
幸せを装う。良い子を演じる。本質的に同じじゃないか」
「……やめて……」
「佐祐理さんは、悲しい思い出から目を背けていないかい?
舞に優しくすることで、弟に辛く当たってたのを忘れようとして。
それでも、結局は忘れることができない。そうだろっ!」
「……やめてください……」
「一弥くんが亡くなったのが小学生の時なら、少なくとも七年は経ってる。
そうやって昔の傷をずっと引きずってさ……良くないと思うんだよ。
逃れられない過去と向き合って、その上で乗り越えなくっちゃ。
見せかけだけの、偽りの幸せにすがらずに、さ」
「もう、やめてくださいっ」
私は叫んでいた。
【第八章】
いつもは優しい祐一さんが、初めて見せた厳しい姿。
一言一言が、古傷をえぐる。
「一弥のこと、忘れようとしていたのは、当たってます」
そのことは認めざるを得なかった。心が、痛かった。
自分自身の弱さを認めることは、とってもつらい。
この場から逃げ出してしまいたいくらい。
けれど、私の思いを伝えるまで、逃げるわけにはいかない。
「舞に優しくすることで過去から逃げてたのも、本当。
佐祐理はダメな女の子だから……」
悲しくて悲しくて、胸が張り裂けそうだった。
「でも、舞や祐一さんのこと、一弥の身代わりだなんて思ってない。
見損なわないでくださいっ!」
通りがかりの人たちが何人か振り返ったけど、かまっていられなかった。
祐一さんには、わかってもらいたかったのだ。私の本当の気持ちを。
「別に、幸せなふりをしようとしてるわけじゃありません。
楽しい時も、悲しい時も、微笑むことしかできないんですよ、私は。
一弥を失ってから、感情も表情も、なくしてしまったの……」
一度あふれ出した言葉は、もう止まらなかった。
【第九章】
「それは、佐祐理に下された罰。
舞に優しくすることは、贖罪なんです。自分を取り戻すための。
でも、それが祐一さんを傷つけていたなんて……」
声が震えた。私は再び同じ過ちを繰り返してしまっていた。
舞を幸せにすることで、自分自身も幸せになれる。
一弥を良い子にすることで、自分自身も良い子になれる。
そう信じてきたけれど。どちらも独り善がりの錯覚に過ぎなかった。
しかも、感情を見せないことが、祐一さんを不安にさせていたのだ。
私はうなだれた。だけど、彼は首を振った。
「俺の方こそ、傷つけるようなこと言ってしまって、ごめん。
佐祐理さんが独りで悩んでいるのを感じて、辛かったんだ。
放っておけなくて。以前からずっと、何をしてやれるか、考えてた」
温かな思いが胸に広がる。真剣な顔で、彼は続けた。
「だいたい、佐祐理さんは、いつも自己犠牲が過ぎるんだよ。
悩みも苦しみも悲しみも、すべて自分だけで抱え込んでさ。
俺じゃ、痛みを分かち合う相手になれないかな」
「……はぃ?」
私は、思わず祐一さんを見返した。
【第十章】
「ずっと傍にいたいんだ。佐祐理さんのことが好きだから」
人通りの激しい往来での、告白。
初めから、彼の瞳は私だけを見つめていたのだ。
「佐祐理は普通の子よりちょっと頭の悪い、ただの女の子ですよ」
「佐祐理さんが自分のことを何て言おうが、俺は大好きだからな」
一度聞いた言い回し。
なのに、目頭が熱くなった。
「祐一さんは佐祐理を買いかぶってます。きっと幻滅しますよ」
「確かめさせてくれるんだろ?」
瞳が潤んで、もう祐一さんの顔をまともに見ていられない。
「祐一さんがそうしたいなら……」
ようやく言葉を返したその時、私は彼に優しく抱きしめられていた。
積もった雪が解けるように、凍りついた刻が流れ出す。
悲しくもないのに、涙が頬を伝った。
自分を必要としてくれる人がいる。
いつまでも傍にいてくれる人がいる。
それは、嬉し涙だった。
人目もはばからずに、私は泣いていた。